先の大戦中、「国からの圧力はあったとしても、それにしたってこの人ともあろうものが、なんでこんな物を書いたかなあ」みたいな文章を残している作家がいることがずっと疑問だったが、ちょっとその理由がわかったような気がする。

物書きと呼ばれる知的な方々なら、斜に構えたポジションからシャープさやユーモアを発揮したり、示唆的な妄想を膨ら ませてみたりすることは平素ならFood for Thoughtを与えることができるとしても、マジでFoodの心配がなされているような時には屁ほどの役にも立たんということを実感しておられるに違い ない。

が、文学者には「クールな作品を」という我欲があり、この我欲がなければ文学者は文学者ではなくなる。その一方で は、陳腐でもいい、ピュークされてもいい、とりあえず今は人心を明るくするメッセージを、という我欲(即ち文学者であること)を捨てた態度もあるだろう。 大変な時期は沈黙しておいて、落ち着いてから「ああ、さすが」と後世にもリスペクトされるような表現をしたいというクレヴァーな姿勢もあれば、一貫して沈 黙を通すという大変に孤高でナルシスティックな人もいるかもしれない。

例によって、どれが間違っているということはないのである。
どのスタンスが一番信用できるか。という個人的好みの問題はあるとしても。